明珍宏和「幕が上がる、その前に」第6回──次なる「トスカ」へ

九月二十一日、来春三月に予定されている歌劇『トスカ』のオーディション合格者による旗揚げコンサートが幕を閉じた。


初めて顔を揃えた仲間たちと共に、同じ舞台で歌い、響きを重ねたその時間は、短いながらも深く心に残るものとなった。終演後、客席に残る拍手の余韻に耳を澄ませながら、私は思った。──これは終わりではなく始まりなのだ、と。


『トスカ』は、プッチーニが描いた濃密な三幕のオペラである。多くの人が注目するのは、トスカ、カヴァラドッシ、スカルピアという三大役であろう。だが旗揚げコンサートを経て改めて感じたのは、この作品に登場するすべての役に、それぞれの息遣いと重みがあり、誰ひとり欠けても物語は成立しないということだった。



第一幕の冒頭、聖堂の扉を開けて登場する堂守。彼の歌声は素朴でありながら、聖堂という空間に人々の暮らしの匂いを与える。舞台に最初の温もりを差し込むのは、この役にほかならない。


続いて現れるアンジェロッティの緊迫した逃亡は、物語にただならぬ気配を呼び込み、カヴァラドッシとの友情やトスカの疑念、スカルピアの策謀へと、運命の歯車を回しはじめる。


スカルピアの部下であるスポレッタとシャルローネは、冷徹な命令の実行者として舞台に立つ。その存在感は強い台詞以上に、舞台全体を現実の権力の場へと変貌させ、スカルピアの悪辣さを際立たせる。彼らが動くたび、物語は緊張を増し、観客の胸を締め付ける。


第三幕で夜明け前に響く羊飼いの少年の歌声。無垢な旋律が静けさの中に浮かび上がり、観客の心に一瞬の安らぎを与えるからこそ、直後に訪れる悲劇はなお一層切実に迫る。


そして看守が告げるわずかな言葉。それは短いながらも、カヴァラドッシの運命を決定づける重さを持つ。その瞬間の真実が観客に届くかどうかは、この役の一挙手一投足にかかっている。


さらに、合唱や群衆の存在を忘れることはできない。


第一幕の「テ・デウム」、第二幕の喧噪。大勢の声が重なり合うことで、個々のドラマは社会や歴史のうねりと繋がり、作品に厚みを与える。声と声の交わりが、舞台を単なる私的な物語から普遍的な人間のドラマへと押し広げていく。



もちろん、三大役は作品の軸である。


トスカは信仰と愛に生きる女性であり、その純粋さが疑念に揺れ、やがて決意と行動へと変わっていく。


カヴァラドッシは芸術家として自由を求め、恋人への愛を貫き、命をかける。


スカルピアは権力と欲望に溺れ、すべてを支配しようとする男。その存在が、二人を逃れられぬ悲劇へと追い詰める。


しかしその周囲を取り囲む人々がいて初めて、この三角関係は鮮烈に浮かび上がる。舞台は三人のためにあるのではなく、全員の声と息遣いがあって初めて全体が呼吸をはじめるのだ。



旗揚げコンサートで、仲間たちはそれぞれの得意曲を通してその可能性を示した。まだ粗削りではある。だが、歌の奥に役への真摯な眼差しと情熱が確かに見えた。声が触れ合い、寄り添い、重なり合うとき、そこに小さな奇跡のような響きが生まれる。その瞬間を聴きながら、私は来春三月の舞台を思い描いていた。


これからの日々は、稽古の連続である。譜面に書かれた音符を超え、言葉の背後に潜む感情を探り、台詞に命を吹き込む。仲間と呼吸を合わせ、舞台全体のエネルギーを共有する。ときには声が思うように出ずに苦しみ、役の解釈で意見がぶつかることもあるだろう。しかし、そうした迷いや葛藤を共に越えたとき、初めて舞台は観客の胸を揺さぶる真実を持ちうる。


旗揚げコンサートのあと、客席に残った拍手を思い出すと、それは単なる励ましではなく「この先を期待している」という祈りのように感じられた。その祈りに応えるために、私たちは歩みを止めるわけにはいかない。これから迎える一日一日を積み重ね、声と心を研ぎ澄まし、プッチーニの音楽に身を投じていく。


来春三月、幕が上がるとき、九月に芽生えた小さな希望は必ずや大きな花を咲かせるだろう。その花は決して華美ではなく、積み重ねた時間と汗と葛藤の重みを宿したものとなるはずだ。そこに響くすべての声は、観客の胸に静かに、しかし確かに届くにちがいない。



──旗揚げコンサートは終わった。だが、それはほんの序章にすぎない。


これから始まる長い稽古の日々の果てに、すべての役が呼吸を合わせ、プッチーニの音楽と重なり合い、ひとつの物語となる。そのとき、私たちは観客と共に「トスカ」という世界を生きることになるだろう。


そして、そこで得られるのはきっと──人と人との静かな結びつきを刻み込んでくれる時間なのだと思う。






プリンスオペラ代表

明珍宏和







Prince OPERA

北区から世界へ。 プリンスオペラは 地域に根差した質の高い芸術を育て 世界に向けて発信していくことを 目指しています。