明珍宏和「幕が上がる、その前に」第7回 ── 祖父と飛鳥山の四季

 子どもの頃、祖父に連れられて飛鳥山公園へ出かけたことを、いまも鮮やかに覚えている。


 祖父の手は細く、骨ばっていて、どこか華奢だった。だがその手のひらには、静かで確かなぬくもりがあった。私はそのやさしい温もりに導かれながら、坂をのぼった。真夏の陽射しは容赦なく照りつけ、頭上からは蝉の声が降り注いでいた。けれども祖父と並んで歩く時間は、不思議とやわらかく、少しも苦にならなかった。


 公園の中には、昔は小さな売店があった。棚に並んだ駄菓子やラムネに迷っていると、祖父はいつも穏やかに「好きなものを買いな」と言ってくれた。その声は細く、決して強くはなかった。けれどもそのひとことには、子どもの私をひとりの人間として尊重してくれる温かさがあった。袋を受け取るときの小さな誇らしさと、祖父の笑顔。その組み合わせは、今も記憶の奥で静かに輝いている。


 ベンチに腰を下ろすと、どこからか小鳥が近づいてきた。私はお菓子を小さくちぎって地面に置き、その嘴がついばむ様子を夢中で眺めた。祖父は横で目を細め、静かにその光景を見守っていた。私が「食べたよ」と声をあげると、「そうか」と短く返し、ふっと笑う。その笑顔は、言葉以上にあたたかかった。



 飛鳥山の春は、何よりも桜で始まる。枝いっぱいに咲いた花が風に揺れ、空を覆うように広がっていた。坂をのぼるたび、花びらがはらはらと舞い落ち、足元に淡い薄紅色の絨毯を敷いた。私はそれを両手に受け止め、祖父に見せた。祖父は「きれいだな」と静かに言い、その声には花びらと同じ柔らかさがあった。


 昼下がり、桜の下に座ると、光が花びらを透かしてきらめき、春特有のやわらかな風が頬をなでた。甘い花の香りに包まれ、私は胸の奥がほのかに熱くなるのを感じた。



 夏の飛鳥山は濃い緑に覆われ、光をたっぷり吸い込んでいた。葉と葉が重なり合い、風が通るたびにざわめきが広がる。蝉時雨が一日中鳴り響き、暑さと音に押し包まれながら、祖父と歩く。額に汗が滲み、足取りが重くなると、祖父は「ゆっくりでいい」と声をかけてくれた。


 時には坂を下り、音無親水公園に出る。せせらぎの水は涼やかで、無数のシオカラトンボが舞っていた。光を透かす翅が空気を震わせ、影が水面に映り、揺れ動く。その不思議な姿に目を奪われ、祖父の横顔さえ忘れて見入った。祖父は小さな声で「よう飛んでるな」とつぶやき、それだけで十分だった。



 秋が訪れると、飛鳥山の木々は鮮やかに色を変えた。紅や黄の葉が枝を染め、落ち葉が足元に広がる。私はわざと落ち葉を踏みしめ、かさかさと音を立てて遊んだ。祖父はそれを見て、黙って頷き、少し笑った。


 風が吹くと、枝から葉がひらひらと舞い降り、祖父の肩にもひとつ落ちた。私はそれを取って差し出し、祖父は「ありがとう」と微笑んだ。その短いやりとりに、なぜか胸が温まった。秋の光はやわらかく、空は高く澄み渡り、時間が静かに流れていった。



 冬の飛鳥山は、葉を落とした木々が冷たい空気の中でじっと立ち尽くしていた。空はどこまでも澄んでいて、白い雲がゆっくりと流れていく。吐く息は白く、祖父の細い肩が震えているのを、幼い私はそっと見ていた。


 公園のベンチに座り、祖父がポケットから手を出して私の手を握ると、その手は驚くほど冷たかった。それでも、握り返すと、やさしいぬくもりが確かにあった。冬の空気の冷たさと、その中にある温もりの対比は、幼い私の心に深く刻まれた。


 夕暮れが訪れると、空は橙色に染まり、蝉の声も、鳥の声も、次第に遠のいていった。祖父と並んで坂を下りるとき、私はいつもその華奢な手の感触を意識した。力強さではなく、やさしさそのものがそこにあった。


 家に戻ると、祖父はまた別の姿を見せた。競馬が好きで、新聞に鉛筆で印をつけ、ラジオに耳を傾けていた。真剣な眼差しは鋭かったが、それでも私が大声で話しかけると、困ったように笑って「はいはい」と返してくれた。その笑顔は、公園で見せるものと同じ、どこまでも柔らかなものだった。




 今振り返ると、飛鳥山公園や音無親水公園で過ごした時間は、私にとって「四季の美しさ」と「人のやさしさ」を同時に教えてくれた記憶だった。桜の花びら、夏の蝉時雨、秋の落ち葉、冬の冷たい風。そこに祖父の姿が重なり、ひとつの風景となって胸の奥に息づいている。


 ──祖父と歩いた飛鳥山の坂道。


 売店での「好きなものを買いな」という声。


 ベンチで鳥と分け合ったお菓子。


 水辺に舞うシオカラトンボと、祖父の横顔。


 そのすべてが重なり合い、そして人と人との静かな結びつきを刻み込んでくれたのだと思う。





プリンスオペラ代表

明珍宏和




Prince OPERA

北区から世界へ。 プリンスオペラは 地域に根差した質の高い芸術を育て 世界に向けて発信していくことを 目指しています。